リンゴ・スター(本名リチャード・スターキー)は1940年7月7日、第二次世界大戦の戦禍の中、イギリス、リヴァプールのディングル地区マドリン・ストリート9番地で、父リチャード、母エルシーの一人息子として生まれた。父はビッグ・スターキー、リンゴはリトル・ス ターキー、またはリッチーと呼ばれていたという。
 3歳の時に両親が離婚し、母に引き取られてアドミラル・グローブ10番地に転居したリンゴは、リヴァプールでもっとも貧しい地域といわれるディングル地区での厳しい生活の中、6歳と13歳の時に大病を患い、長期入院生活を余儀なくされるなど、不遇な幼少年時代を送った。  だが、この2度目の入院中に将来を決定づける出来事があった。その小児病院には長期入院児童を対象にした音楽教室があり、そこでリンゴはドラムとの出会いを果たすことになる。まさに“災い転じて福と為”したわけだ。
 学校卒業後、鉄道の配達係やフェリーのバーテンダーの職を経て、義父ハリー・グレイヴス(リンゴが12歳の時の母の再婚相手)からあっせんされた会社に57年、16歳の時に就職したリンゴは、会社の同僚と、当時イギリス全土でブームを巻き起こしていたスキッフルにあやかったバンド、エディ・クレイトン・スキッフル・グループを結成し、ドラマーとしての音楽活動を開始した。その2か月前にリンゴに中古のフル・ドラム・セットを買い与えるなど音楽活動を後押しした義父(Stepfather)のことをリンゴはStepladder(脚立)と呼んでいたという。

 その後、59年3月に、地元リヴァプールで人気を博していたバンド、テキサンズに参加(同年11月、リンゴの正式加入とともにロリー・ストーム&ハリケーンズに改名)。翌60年5月頃には会社を退職し、プロ・ドラマーになることを決意し、「リンゴ・スター」という芸名を名乗り始める。これは指輪をたくさんはめていたために「リングス(Rings)」というニックネームで呼ばれていたことに由来している。
 60年10月にドイツ、ハンブルクでのツアー中に知り合ったビートルズのメンバー、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンと意気投合したリンゴは、62年8月にジョンとポールからのビートルズへの加入の誘いを受け、ここにビートルズの不動の4人のメンバーが誕生したのだった。

 62年9月に行なわれたビートルズのデビュー・シングル用の2度目のレコーディング・セッションでは、プロデューサー、ジョージ・マーティンの判断によりセッション・ミュージシャンにドラマーの座を奪われるという屈辱を味わったものの、ビートルズは63年には「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」など4枚のシングルと『プリーズ・プリーズ・ミー』『ウィズ・ザ・ビートルズ』の2枚のアルバムのすべてをイギリス・チャートのナンバー・ワンに送り込み、「ビートルマニア」なる造語も生まれた。さらにその余勢を買って翌64年にアメリカへの進出を果たした。この時、メンバーの中ではリンゴの人気が最も高く、「アイ・ラヴ・リンゴ」と書かれたバッジが一番よく売れたという。彼らが出演したアメリカの人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』は72%という驚異的な視聴率を記録し、ビートルズ人気は決定的なものとなった。
 2作目の主演映画『ヘルプ!』の撮影直前の65年2月にモーリン・コックスと結婚し、同年9月に長男ザック、67年8月に二男ジェイソンをもうけている。

 リンゴは、ビートルズでの7年半のバンド活動の間、68年8月から9月にかけて2週間ほどビートルズを離れた時期はあったものの、メンバーの潤滑油、バンドの屋台骨、縁の下の力持ちとして音楽的にも人間的にもビートルズを支え続けた。70年4月、ポールの脱退が公表され、ビートルズの解散が公になる直前にはアルバム『レット・イット・ビー』の最後の追加レコーディングにメンバーでは唯一参加。ビートルズの最後を見届けたのもリンゴだった。


 ビートルズ時代のリンゴの単独自作曲は「ドント・パス・ミー・バイ」「オクトパス・ガーデン」の2曲のみで、リード・ヴォーカル曲も10曲ほど。ドラマーがバンドの牽引役という時代ではない当時のバンド形態の中にあって、リンゴの存在感が他の3人のメンバーにヒケを取らなかったのはなぜだろうか。
 たとえば、“人気投票では3人に勝てないけど、2番目に好きなメンバーを選ぶ人気投票だったら、きっと1番になれるよ”とか、“(ベートーヴェンをどう思うかという質問に対して)いいねえ、特に詩が”といったユーモア溢れるウイットに富んだ発言。
 あるいは、初の主演映画の制作中、長い1日が終わり、“忙しい1日(It’s been a hard day)”と言いかけたあと、もう外が暗くなっているのに気づき、そのあとに“の夜だったなあ”(’s night)とつけ加えた言語感覚。
 ついでに言うなら、その一言をもとにジョンが書き上げたのが「ハード・デイズ・ナイト」だったわけだが、ほかにも、「トゥモロー・ネバー・カムズ(明日は来ない)」と本来は言うところを誤用した言い回しをタイトルにした「トゥモロー・ネバー・ノウズ」など、リンゴの言語感覚は、ジョンが“Ringoism(リンゴイズム)”と名付け、“わざと場違いな言葉を使うのではないけれど、なんか変な言い回しになることってあるよね。それがリンゴのお得意なんだ”と述懐するほど独特のものでもあった。
 そして、リンゴが一人でテムズ川のほとりを歩くシーンが絶賛された彼らの初の主演映画『ハード・デイズ・ナイト』、およびリンゴの指輪が引き起こす騒動を描いた2作目の主演映画『ヘルプ!』に見られるような演技力の高さとキャラクター。
 リンゴのちょっととぼけた、味わい深い魅力は、これらの言動やエピソードからも十分に伝わってくる。

文:藤本国彦